2008年04月27日
日常
日常的にTVを見なくなってから久しく。
子どもが生まれたときからでしょうか?意識してテリトリーからTVをなくしたのは。
ネットもそう感じるのですが、TVもしかり、その情報を見ることによって、あたかも自分の意見であったり、自分が実際に見たかのように感じてしまう。それは、ちょっと違うんじゃないか?と思っています。視覚から入る情報というのは、脳の何番を通ってくるのか知りませんが、強烈に意識付けされ画像として鮮明に記憶に残ります。
昨日の「聖火」。
私は自宅におりましたら、何らいつもと変わらぬ、何の情報も入ってこない、平坦な一日でした。
「こういうことなんだ。」と改めて感じました。情報過多の怖さ、情報が無いことの怖さ、情報を得ることによる安心、情報のない平穏。関わりたい好奇心、巻き込まれたくない自制心。大衆や民衆、個々と個人。
様々な感覚を覚えました。
母はTV画面で聖火の様子を一部始終見ていたようです。
父は、長野市街地まで出掛けて行きました。
夫と子どもは山の中で合宿です。
私は、東京へ昨日から始まる「P&KOの空手大会」の応援&見学へ行く予定が、
塾の仕事や色々が山積みで、本日、日帰りで行くこととし、自宅で郵便物の用意をしたりPCと睨めっこしながら書類作成をしたりしておりました。Naganoの「現在」を感じなくていいのか?という思いを抱きながら、自分のすることをする。そんな一日でした。東京行きの準備は、出発する直前にまでいっていたのですが。泊まりで出掛けるのは時間・体力・気力・財力を必要としますね。仙台へも出掛けたばかりですし。
東京行きを決行しておりましたら、長野駅界隈の様子も味わえたでしょうが、今回は、縁が無かったです。
もっと落ち着いた温かい気持ちで「聖火」を見守りたかった思いが残ります。
聖火ランナーの皆さん、このイベントに仕事やボランティアで関わった皆さん、ご家族の皆さん、お疲れ様でした。
知り合いの中国上海出身の方と、今回のことについて話をしたい。
意見交換をしたい。と思っています。
そして自分の考えを整理したいと思います。
2008年4月26日(土)の「Nagano」はなんだったのか。
明日の長野はどうなのか。
人々が、様々な思いを抱いた「聖火リレー」です。
子どもが生まれたときからでしょうか?意識してテリトリーからTVをなくしたのは。
ネットもそう感じるのですが、TVもしかり、その情報を見ることによって、あたかも自分の意見であったり、自分が実際に見たかのように感じてしまう。それは、ちょっと違うんじゃないか?と思っています。視覚から入る情報というのは、脳の何番を通ってくるのか知りませんが、強烈に意識付けされ画像として鮮明に記憶に残ります。
昨日の「聖火」。
私は自宅におりましたら、何らいつもと変わらぬ、何の情報も入ってこない、平坦な一日でした。
「こういうことなんだ。」と改めて感じました。情報過多の怖さ、情報が無いことの怖さ、情報を得ることによる安心、情報のない平穏。関わりたい好奇心、巻き込まれたくない自制心。大衆や民衆、個々と個人。
様々な感覚を覚えました。
母はTV画面で聖火の様子を一部始終見ていたようです。
父は、長野市街地まで出掛けて行きました。
夫と子どもは山の中で合宿です。
私は、東京へ昨日から始まる「P&KOの空手大会」の応援&見学へ行く予定が、
塾の仕事や色々が山積みで、本日、日帰りで行くこととし、自宅で郵便物の用意をしたりPCと睨めっこしながら書類作成をしたりしておりました。Naganoの「現在」を感じなくていいのか?という思いを抱きながら、自分のすることをする。そんな一日でした。東京行きの準備は、出発する直前にまでいっていたのですが。泊まりで出掛けるのは時間・体力・気力・財力を必要としますね。仙台へも出掛けたばかりですし。
東京行きを決行しておりましたら、長野駅界隈の様子も味わえたでしょうが、今回は、縁が無かったです。
もっと落ち着いた温かい気持ちで「聖火」を見守りたかった思いが残ります。
聖火ランナーの皆さん、このイベントに仕事やボランティアで関わった皆さん、ご家族の皆さん、お疲れ様でした。
知り合いの中国上海出身の方と、今回のことについて話をしたい。
意見交換をしたい。と思っています。
そして自分の考えを整理したいと思います。
2008年4月26日(土)の「Nagano」はなんだったのか。
明日の長野はどうなのか。
人々が、様々な思いを抱いた「聖火リレー」です。
Posted by いずみ♪ at 02:38│Comments(0)
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